私が、バクダッドに着任して1ヶ月が過ぎたころでした。
夕方5時頃、いつも通り関係会社との打ち合わせし
日本へテレックスを発信して帰宅した。
帰宅する道中は、いつもと変わらない町の風景だった。
7時頃、帰宅した人が、
なんだか町の雰囲気が変だぞ!と叫んだ。
それは、店で卵を大量に買う人、
ミネラルウォーターを大量に買う人、
そして、それを車に乗せて北(モスール地方)へ向かう人
帰宅した人は、北の方からバクダッド市内へ戻って来た
道中、いつもより北へ向かう車が多いので
何かおかしいと思いながら、市内へ来たが
店で生活用品を夕方大量に買うのを見て!
イラク人に確認したのだ。
それは、隣の国、イラン国営放送のラジオで
7月14日バクダッド市内のモスル(イスラムの寺院)など
数ヶ所へミサイル攻撃をする放送だった。
その放送があったのが、6時ごろだそうです。
あのイラク人が慌てて逃げるのだから
今回の放送は、真実味がある。
私が住んでいたホームには、日本人が7人住んでいた。
夕食をゆっくり食べている状況ではない。
早速、緊急会議だ!!と誰かが叫んだ。
そういえば、私がバグダッドへ着任した日も、ミサイル一発市内へ
そして、1週間後にもホームから近いところミサイル一発着弾。
この時は、夕方関係会社から打ち合わせして帰宅途中、
車の中から家の方で煙があがっているのが見えた。
家につくと、前日、バグダッドに着任した人が
青ざめた顔して、俺、もう帰る。日本へ帰ると叫んでいた!
その人の話を聞くと、家の上を「ボゥオーーー」と言う音で
ミサイルが通過して即、ドッカーーンと言う爆音が
そして、家の窓ガラスの開閉式の戸が、
爆風でバタバタを開いたそうです。
そんな話を聞いて2週間ぐらい後のミサイル攻撃報道で
家の日本人は、真剣だった。
会議か終了して、
バグダッドから西へ150Kmぐらのところにあるサルサル湖へ
皆でピクニックへ行くとお客さんへ連絡することに決定。
幸い、7月14日は、イラク革命記念日で祝日だった。
夜の9時ごろから
皆で手分けして、ご飯を炊きおにぎりを作る人。
ミネラルウォータを冷凍庫で冷やす人。
その他の食料を調達する人。
空きタンクにガソリンを購入しに行く人。
深夜、12時過ぎには、準備ができた。
それからは、個人で最低限の所持品を
アタッシュケースへ詰め込んだ。
最低限の所持品は、
パスポート
洗面具一式
換えの下着
会社の重要書類
現金(US$と日本円、イラクディナール)
そして、床についた
でも、怖くて眠れない!
いつ飛んでくるか分からないミサイルの
ことを考えていると怖くて眠れないのである。
朝方、4時ごろまでうつろうつろして
寝たのか分からないうちに5時30分の
起床時間!
よく寝てないので頭はボーーーとしているが
そんなことは言ってられない。
皆、食料品やミネラルウォーターを
2台のランドクルーザーへ積み込み開始。
6時に全員搭乗して、いざ出発。
朝、6時だとほとんど道を走っている車はいない。
それとも、昨晩のうちに既に市内から
脱出していないかな?
何れにしても、早くバグダッド市内から脱出だ!
皆、車の外を不安な顔で見ていた。
出発して1時間すると
辺りは一面の荒野、西部劇の舞台になる風景だ。
皆、一安心した顔で、何も無かったことを
話し始めていた。
サルサル湖での話は、またにして
夕刻、サルサル湖を出発し、
また、不安の顔をしながら市内へ戻った。
皆、車の外を見回しながら
何も無かったのかなーーーとつぶやいていた。
7月15日の朝方、遠くの方で、ドンと言う音が聞こえた。
結局、7月14日のミサイル攻撃は、バグダット市内の
住人を不安にさせる報道だった。
7月15日の朝方のドンと言う音は、バクダット市内の外れた
橋の近くに落ちたミサイルの音だった。
私にとって、1985年の7月13日から14日は、
人生で一番怖い夜だったと思う。
あのような日々が続く戦争をしている国の人々の
ことを考えると
「戦争は、人々に不安を与えるだけで
決してしてはならないことだと私は思う。」

